宏美さんは、TILベンチレーターネットワーク「呼ネット」の副代表であり、CIL東大和の代表でもある。CILは障がいを持っていても地域で自立して生きていく支援をしている権利擁護団体である。
宏美さんは、人工呼吸器を搭載した電動車いすを操り、ヘルパー(海老原さんのところでは、「アテンダント」と呼ぶ)と一緒にさっそうと現れた。カッコいい、と感じた。

いただいた講義メモをもとに、お話をまとめてみた。
宏美さんは、気管切開をしていない。マウスピースで補助呼吸という状態のため、短時間なら会話ができる。時々息を継ぎながら語るお話に、聞き入った。
****************************
宏美さんの病気は、脊髄性筋委縮症U型である。神経の障害があり脳から筋肉への伝達がうまくいかない。進行性の病気で、1歳半で確定診断を受けている。昔は少し歩けたが、今はほぼ全介助の状態である。
宏美さんには、兄と弟がいる。3人兄弟の真ん中である。宏美さんのお母さんには3つの子育て理念があった。これは、3人兄弟のすべての子育てにおいて共通のものだった。
子育て理念1:地域で生きる
小学校から高校まで、地元の普通校に進学。闘いの連続だったが、ない前例をつくってきた。
子育て理念2:自立(親子共々)
他人介助の推進をした。できることとできないこと、やりたいこととやりたくないことを伝える力が育った。外出するときは、お母さんが最寄り駅までは車で送ってくれるが、駅前にひとり置いて帰られる。そのため、あとは自分で通りすがりの人に声をかけて、切符を買ってもらい、駅員さんを呼んできてもらって介助してもらって電車に乗って外出する、という日々だった。
子育て理念3:高校を出たら家を出る
大学のときにはボランティアで一人暮らしを開始した。まだ呼吸器はついていなかったがスゴイことである。大学内に介助者募集のポスターを貼り、友達に手伝ってもらい、たりなければ、友達の友達、そのまた友達、時には近所のおばちゃんに頼んでいった。
大学卒業後、初めて自分は障害者なんだ、と実感した。
それは就職活動のことだった。
歩けない、電話もとれない、トイレも介助がいる、そんな自分を雇ってくれるところはなかった。やむを得ず実家に帰った。どこに行くにも、何をするにも、次第に年を重ねていくお母さんの顔色を伺いながらいちいち頼まなければならないのが嫌だった。
暇だったときに日韓の障害者運動TRYに参加、韓国を野宿しながら縦断した。新しい障害者運動のあり方を知り、人生観が変わった。その勢いのまま、2001年に東大和市で自立生活を開始。
TRYで無理したのがたたったのか、体の調子が悪くなってきた。脈は速くなるし、記憶力も悪くなったし、食欲もなく、元気がなくなってしまった。医師に相談したところ、検査入院することになった。診断は、慢性呼吸不全。つまり自分の力で呼吸ができなくなってきているということだった。
人工呼吸器導入と聞いたとき、人工呼吸器というもの、呼吸不全というものに対する不安があった。また、呼吸器を使っての生活というものに対する不安があった。モデルもいなかった。しかし、医師と呼吸器業者から丁寧な説明があり納得して導入した。周りに誰もモデルがいなければ、自分が作っていくしかないと思った。
そして人工呼吸器導入後、何より元気になったことに驚いた。記憶力が戻り、頭がぼーっとしていたのも治ってすっきりし、食欲も復活し意欲も湧いた。なんてすばらしいんだろうと思った。
呼吸器がついていると、「重度」な感じがして、できないことが多そう、増えそうに思っていたが、逆だった。呼吸器がついていると、「不幸」な感じがしたが、呼吸器をつけないで死んでいく方が不幸だと思った。
それらをもっと広めたい、自分が感じたような不安を抱える人を減らしたい、と思い、呼ネットを立ち上げた。親の会は多いが、当事者の会はほとんどない。呼ネットは、設立3年で全国に130人以上の会員(ほとんどが人工呼吸器ユーザー当事者)がいる。
「医療的ケアは受けてみないとその価値はわからない」
重度になればなるほど、社会参加度は減るが、どんな当事者にも、役割はある。一緒に見つけていく活動をこれからも続けていきたい。
****************************
人工呼吸器をつけた人の肉声の話を1時間もの間、聴くことはこれまでになかった。多くの気づきがあるひと時だった。
宏美さんと、貴重な時間を与えていただいた自立生活センターとちぎの皆さんに感謝いたします。
呼ネットのホームヘージ http://tokyoilcenters.web.fc2.com/tvn.html
ひばりクリニック・特定非営利活動法人うりずん
橋 昭彦
橋 昭彦