2010年09月13日

「20号壕 沖縄陸軍病院跡」を訪れる

<壕とガマ>
人間が掘ったものを壕(ごう)、自然の洞窟を利用したものをガマという。 沖縄戦では、米軍の上陸で追われた人たちは、南へ逃れ、壕やガマに隠れた。 今でも多くの壕やガマが残るが、整備されているもの以外に、自然のままのものもあり、長靴がないと入れないところもあるという。
2010年6月、てぃんさぐの会総会に参加するため沖縄本島を訪れたとき、このガマに 詳しい人に出会った。南風原町(はえばるちょう・旧南風原村)にある20号壕は、 戦跡としては内地ではあまり知られていないが、ぜひ行ったほうがいいと言われた。
沖縄陸軍病院は、空襲で施設が焼失したあと、南風原国民学校校舎に移り、やがて、20号壕などの地下壕に移った。その見学が出来るというのである。
南風原村は海に面していないが、首里と那覇の間にある交通の要所であった。 1994年8月(本土への疎開直前)、南風原村には8,953人の人口がいたが、 15年戦争(1930年〜1945年)で4,431人がなくなった。実に半数近くが犠牲となったのである。

<南風原町文化センター>
20号壕に入るには、まず南風町文化センターに行く必要があった。
聞いていた場所にないので、公民館で聞くと新しくなったとのことであった。 新しい文化センターはベージュ色の大きな建物で、資料室以外にも集会が できるスペースがあり、その日は地元の演芸会が開かれていた。
資料室の受付で、20号壕の見学をしたいと頼む。11:30に見学の予約がとれた。
予約の時間まで資料室を見る。レプリカの壕の中に木製のベッドがしつらえてある。 木製のベッドに寝てみた。2段のベッドである。壕の横幅は180cmだが、 ベッドがおかれているので幅はその分狭くなる。資料室には、焼け焦げたナベや、弾丸などがおかれ生々しい。  


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資料室にある南風原村の戦没者一覧・すべてを写し切れない多さだ


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焼け焦げたナベ

米軍が迫る中、陸軍病院に退避命令がでた。
しかし、歩けないものは連れて行かないという命令である。
口封じのため、青酸カリ入りのミルクが配られた。看護師はミルクの中身を知らされていなかった。
医師の中には、青酸カリを埋めて抵抗したものもいる。ある人は、ミルクを飲んだ人がみな 静かになったのでおかしいと思った。ミルクをひと口飲んだが、味がおかしく、 すぐに口に指を入れて吐いた。そして、歩けないはずが歩いて逃げた。 吐いて逃げようとした人はほとんど銃殺され、ただ1人生き残った人の証言が得られた。
多くの方々の犠牲で今があることを改めて想い、20号壕へ向かった。

<20号壕 陸軍病院跡を見学>
文化センター近くの山あいに、20号壕はあった。20号を見学するときは、 必ず1人案内人がつくが一度に10人までしか入れない。そのため、修学旅行の ような団体が入ることは出来ない。入り口でまず、ヘルメットと懐中電灯を借りる。  


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20号壕の入り口


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埋められていた医薬品や顕微鏡


壕は細長い。高さも幅も180cm。ここにベッドが置かれていたので、通路はもっと狭い。
天井は火炎放射器のために焼け焦げていた。あちらこちらに補強のあとがあった。明かりがないと真っ暗である。足元もぬかるんでいる。そろそろと進むと、十字路があった。
これは、隣の壕である19号、21号を結ぶ通路だった。
戦時中は、この十字路に手術室があった。天井には何もかけるところがないので、わきの壁に穴を掘ってそこに明かりをおいた。どうしてこの十字路が 手術室になったかというと、一番広い場所だからという。


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20号壕内部 天井は火炎放射器のために焼け焦げていた


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隣の壕へ続く通路・この手前の十字路が手術室にあてられた


案内人から聞いた話が印象的だった。
ある元ひめゆり学徒の女性がこの20号にやってきたという。
陸軍病院が壕に移ったときに同行したひめゆり学徒隊の1人だった。
その女性は、「昔のままです。でもひとつだけ違うところがあります。それは、臭いです」と言った。
医師・看護師・ひめゆり学徒で30−40人、患者も60−70人、合わせて100人もの人々が、この全長70mの壕に暮らしていたのである。
トイレもないので、排泄物を外に運び出すのも 学徒隊の仕事だった。それは壮絶な環境だったに違いない。  暗闇の20号壕を70m歩き、出口に出た。出口付近には夏草が生い茂っていた。

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20号壕出口


<沖縄戦の実情は、語られなかったところにある>
この壕は、軍の施設であるため軍人しか入らないところだった。
しかし、民間人が入った壕やガマではもっと悲惨なことが行われたという。 米軍が迫る中、子どもが泣きだした。1つのガマに100人もの人が入っていた。 米軍に見つかると、100人が殺されると言われ、その子どもの口封じをするように親が責めらた。
近くの池にわが子の頭を沈めた親もいたという。

沖縄の人の中には、戦争について次の世代に伝えない人が少なくないという。 お世話になったJさんの母親は、Jさんに戦争のことを何一つ語らなかった。 語れなかったのである。しかし、沖縄戦の実情は語られなかったところにある。 そして今、Jさんのお母さんは、語れなかったことを文章にして残そうとしている。


南風原町文化センター資料室と20号壕からは、後世に伝えたいという 南風原町民のこころを感じた。医療関係者の人に限らず、沖縄を訪れる人には見て欲しい戦跡である。

メモ(ひばりクリニックホームページ「資料室」に、沖縄陸軍病院 南風原壕群 20号のパンフレットのPDFファイルがありますので、お目通しいただければ 幸いです。)
posted by 管理人 at 11:45 | Comment(2) |
この記事へのコメント
10月2日に群馬県の歯科医師会館で、先生の講演を拝聴いたしました。
うりずんを検索していて先生のブログに行き当たり、このガマの話は私の両親から聞かされていたので、興味深く読ませていただきました。また、事前にご了承いただくのが筋なのですが、勝手ながら、こちらのURLを私の日記で紹介させていただきました。だんだん、戦争の悲惨さを語り継ぐ人が少なくなってきています。これからの日本人が悲惨な体験を繰り返さないことを祈っています。
読ませていただきまして、ありがとうございます。
Posted by 手塚百合子 at 2010年10月03日 20:14
 先日はお忙しい中いらしていただき感謝です。ガマのお話をご両親からきいておられたとのこと。私も忘れてはいけないことだと思います。
 日記でご紹介ありがとうございました。もし可能なら日記のアドレスを教えていただければと思います。こちらこそ読んでいただきありがとうございました。
 
Posted by 高橋昭彦 at 2010年10月04日 10:40
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