満開の桜
十数年前、宇都宮で在宅医療を始めた。
以来、季節を感じながら訪問する毎日である。
新緑の木々や秋の紅葉に見とれ、冬は雪化粧の日光連山を眺める。季節にはそれぞれ美しい風景があるが、春の桜は格別である。
桜の枝がピンク一色になるそのとき、今年も春が来たと思う。
認知症対応のグループホームでは、今年もお花見が行われた。
希望があれば看取りまで行うそのグループホームには重度の人も多い。
歩けない人は車いすで、歩ける人にはスタッフが寄り添い、全員で出かける。
やがて満開の花の下でお弁当を広げると、いつもはトロミ食を食べるお年寄りが、いなり寿司を平らげる。いい雰囲気で食欲も進むのだろう。
お花見の日の夕暮れ時、グループホームへ診察に訪れた。

「どこかにお出かけされましたか?」ときくが、
ほとんどのお年寄りは「知らない」「行っていない」と言う。
認知症が進むと、数時間前、ついには数分前の記憶も忘れてしまうのだ。
桜を見るとお年寄りの顔は輝く。
その一瞬の笑顔のために、グループホームでは毎年お花見に出かけるのである。
自宅で療養する、ある女性はがんの末期だった。
桜の時期が近づき、家族はお花見の日を決めた。
車の手配をして、洋服も用意した。その日の朝、訪問看護師のAさんが訪問して、女性に「今日はお花見ですね」と話しかけると、
女性は首を横に振った。女性はお花見には行かないと言うのである。
待っている家族に伝えると、少し考えて「今日は、止めます」「桜の写真を撮ってきて見せます」と息子さんは答えた。娘さんが庭に咲いた花を女性に見せると、女性はうなずいた。
Aさんは、「孝行桜が満開でした。素晴らしいお花見でした」と
その日の様子を表現した。その言葉に私は心をうたれた。
私達は、元気な人の考えで行動しがちだが、本人の気持ちを尊重した素晴らしい対応だった。
数日後、家族が見守るなか、女性は永眠された。
その日の出来事も忘れてしまう認知症のお年寄りにていねいに寄り添うグループホームのスタッフ、お花見に行かないという女性の気持ちを尊重した家族と訪問看護師Aさん。
介護にとって大切なものがそこには間違いなくある。
満開の桜を見ると、そのことを思い出す。
(ひばりクリニック通信テレマカシー第24号より)