21年12月のある日、
「障がい児のきょうだいとして 思いを語る」研修会に参加した。
(登壇者の了解は得ていますが、お名前は仮名にしています)。障がい児のきょうだいとして生まれ育った人たちの思いを
聴く機会は貴重だった。会場には、関係者、障がい児の保護者たちが集った。
3人の女性が登壇した。
<智恵さん>
智恵さんは、現在、子育て中の主婦である。
弟さんは脳性まひで、身の回りの世話が必要な状態という。
智恵さんは当たり前のように弟さんを受け入れてきた。
結婚してからも、実家の両親が家を空ける用事があると、
当たり前のように手伝っていた。
ご主人とは付き合っている頃から、弟さんの障がいのことを話し、
実際に弟さんを連れて出かけたこともある。もし、弟さんのことを話した時点で難色を示されたとしたら、どんなに素敵な人でもそれ以上の付き合いをすることはなかっただろう。ご主人とその家族はあたたかく迎えてくれ、結婚できたと思っている。
現在、幼児期の子どもがいるが、少しずつ弟さんが自分とは違うことを感じ始めている。根気よく話してきかせているが、障がいを頭で理解するのと実際に感じるのは全く違うと痛感している。親になって次の世代に自分が経験したことを伝えていくのが今できることだと考えている。
<則子さん>
則子さんは、障がい者の相談業務についている。
お姉さんがダウン症候群である。小学校高学年のとき、
お姉さんの障がいに気づいた。お姉さんの影響で、福祉の道を志す。
人からお姉さんのことをきかれると、障がいのことを
「病気なんだ」という言い方をしていた。
小さい頃から、お姉さんのことを、自分より優先してきた。
両親からお姉さんが怒られると、自分が怒られているように思い、
お姉さんがたたかれると、自分がたたかれるように思った。
両親はお姉さんのことで則子さんにプレッシャーをかけてきたことは一度もなかったが、3歳の頃には、則子さんはお姉さんの行動を目で追い、面倒を見てきた記憶があるという。
印象深いことは、結婚するまでお姉さんとは同じ部屋で毎日を過ごしていたが、則子さんが悲しいと「どうしたの?」と声をかけてくれ、笑っていると一緒に笑っていたこと。
結婚した今でも、実家に帰ると、お姉さんが「おかえり」と言ってくれる。
<和歌子さん>
和歌子さんは、教育学部の大学生である。弟さんに知的障がいがある。
和歌子さんが、弟さんの障がいを知ったのは中学生の時だった。
両親の落ち込む姿を見ているうちに、徐々に深刻に考えるようになった。
この頃から、親に負担をかけないようにしようという気持ちを持つようになった。
好きでやっていた訳ではないが、家事などの手伝いをはじめ、自分でできることはなるべく自分でやるようにし、親に頼らないようにしていた。
高校生の頃は、自分の家族と友達の家族の違いを感じるようになった。お母さんが弟さんのことばかり気にするので、うらやましくなり弟さんへ八つ当たりすることが多かった。ほとんど毎日部活で遅く帰宅し、家族との関わりを避けた。
もともと教員を志望していたが、両親から教員になるなら
特別支援教育の道を、と進められてそれに従った。
大学に入学した当初は、特別支援には興味がなかったが、ボランティアで
障がい児と関わるうちに興味を持つようになった。
やがてこれまで姉として弟に何もしてやれなかったことに罪悪感を抱くようになり、今は弟さんと関わりを持つようにしている。
また、大学に入ってから「きょうだい会」があることを知り、非常に救われた。
これまでのきょうだいとしての生き方を見つめなおすきっかけになり、今後の弟さんとの関わり方を考えることができた。
何より同じ立場の仲間に出会えたことが心の支えとなっている。
<ディスカッションの時間・抜粋>
1.パネリスト同士の質問
「学校の友達にいじめられたことは?」
智恵さん:身体障がいなので隠しようがないし、隠さず、障がいのこともすべて話していた(あまりいじめはなかった)。
和歌子さん:「何、あの人」とか、「お前、知恵遅れだろう」と言われて、ああ、理解してもらえなかったと悲しくなることはあった。そのときはやめてと言えずに耐えていた。
則子さん:家に遊びに行きたいと言われたときに、苦渋の決断だったが、姉を隠したことがあった。
障がい者施設の名前をいって学校でからかうことが流行っていた。おまえ頭悪いから○○へ行けとか。でも姉が行っていたところ
だったので困った。姉のことを、どう説明したらいじめられないんだろうと思った。姉は、人に握手をために手を出すことがあった。友達の中には怖がって「触らないで」という人がいたが、私の友人が私の姉を受け入れてくれないときは悲しかった。
「親からのプレッシャーを感じたことは?」
智恵さん:親はプレッシャーをかけているつもりはなかったし、私も特に感じたことはなかった。でも、意識のどこかでいい子になろうとしていた。
弟を優先するためにがまんすることが多かった。我が家は「お姉ちゃん」という言い方をされたことがなく、きょうだいそれぞれを名前で呼んでくれた。
今でも弟は私のことを名前で呼ぶ。「お姉ちゃん」と呼ばれるだけでプレッシャーになると思うので、そこは感謝している。
則子さん:私も直接のプレッシャーはなかったが、家族でディズニーランドに遊びに行き、姉が迷子になったとき、私が怒られた。「そうか、私は姉を見ていなければならないんだ」と思った。
和歌子さん:私は親からのプレッシャーをすごく感じて生きてきた。名前で呼ぶのは、ああ、なるほどと思った。「お姉さんだから」と言われてきたので、そういうところでプレッシャーを感じていた。
則子さん:ちょっといいですか。私は逆に姉のことを、「お姉ちゃん」と呼びたかった。でも呼べず、名前で呼んでいた。お姉ちゃんと呼べる人が欲しかった。
「きょうだいと、親に対する思いは?」
智恵さん:私は弟にネガティブな感情をもつことがなかった。弟が大好きで、弟がいたから今の自分がいると思うし、家族との絆を大切にできていると思っている。
親について。手のかかる弟を優先してあげないといけない、両親に迷惑をかけてはいけないと思い、私は我慢する子どもだった。反抗期が来るまで「いい子」だった。やがて人並みに反抗期を迎えた私はひどく怒られた。
怒りの矛先は私に向かったが、弟はしかられたことがなかった。2人分怒られたような感じだった。そのときは泣いて「何で私だけこんなに怒られるの」と言った。すると、両親も私だけをしかっていたことに気づいてくれた。
親といろいろ話した。本当はきょうだいがもう1人欲しかった。どこか我慢することを共有するきょうだいが欲しかった。我慢の気持ちを共有したいきょうだいはたくさんいると思うので、きょうだい会が発展していって、当たり前のようにいえるようになるといい。
則子さん:私の両親への思い。大学を卒業して社会人になったとき、母はが話しをしてくれた。母は、姉の友人を早く作ってあげたいと思って私を生んだと言った。また、母はかつて福祉関係の仕事をしていたが、それをいうと、私が福祉関係の道に進むと思ったので大きくなるまで言わなかったと言う。
私には自由にしてほしいと母は思っていたのだ。
母に申し訳ないといわれた。でも、姉の友達を作りたかったという気持ちで私を産んだことを、私はネガティブに捉えなかった。それで、母の力になれたんだと思い、嬉しかった。我慢することも多かったが、私は恵まれているし、自分の両親を誇りに思う。
無口な母だったので、背中から母の思いは感じていた。やはり、我慢することが多かった。できれば、仕事以外の場でも、きょうだいが、自己主張できる場面を作って欲しいと思う。
時々、きょうだいのわがままに耳を傾けて欲しい。
和歌子さん:きょうだいに対する思い。弟がうっとうしい思った。それは弟が憎いのではなくて、自分よりも弟を優先されてしまうから。親にいわれてこの道(特別支援教育)に進んだが、今は、やりがいがあって自分に向いている仕事と思う。弟にはいてくれてよかったと今では思う。この道に進めたのは
弟がきっかけだし、障がい者の理解をすすめられたのも弟のお蔭だと思う。
親に対しては、ずっと我慢していた。大学に入ったあと、どうしても家族から離れたいと思い反抗した。それまで親に言いたいことを言えなかったが、そのときは言った。すると親からは、ずっといい子だったのに、何で今、と言われた。いい子だったのではなく、そうせざるを得なかっただけ、と伝えたかった。まだ親に対して、少しずつ言いたいことや自分のことを伝えていこうと言う段階である。
きょうだい会では言える、出し切れる、
溜めずにいられる。そういう場が広がっていけばと思う。
2.会場からの質問
<皆さんの思春期・反抗期について:障がい児の親>
健常な子どもが、私に対して「私は我慢している、きょうだいが欲しい」と言う。私はプレッシャーを与えているつもりはないが、どんなことが子どもにとってプレッシャーを感じることなのか。どうすれば、親のことをわかってもらえるのか。
どうしてあげれば、子どもはいいのか。
智恵さん:実際は、反抗期のピークは遅かった。夜家には帰らない、友達の家を泊まり歩く、という生活を1年くらいしていた。そんなときでも、母親は私を見捨てなかった。「ここで爆発するまで我慢させちゃってごめんね」と
言ってくれた。それまで、弟がいたから、自分は一番になっちゃ行けないと思っていた。どこか1つでも、きょうだいが一番になれるときを作ってあげて欲しいと思う。
父と弟がいないときに、母と女同士の話ができることがあった。「弟には内緒ね」とか「お父さんには内緒ね」といって、
スーパーに行ったときにお菓子を買って帰るとか、そんな小さなことでいい。自分だけを見てくれる時間が、10分でも20分でも、それが月に1回でもあると、それがすごく嬉しかった。そういう時間があったのがよかったと思う。
則子さん:大学のときに父に反抗した。母に反抗しなかったのには理由がある。小学校の低学年のときに、ディズニーランドに行った時に、スペースマウンテン(ジェットコースター)に乗った。席は2人掛け。5人で行ったので、誰か1人で乗らなければならなかった。弟は母親と、別のきょうだいは父親と、
そして私は一番前に1人で座った。終わった後、母が一番に私のところへ来て抱きしめてくれた。「よくがんばったね」と。それを鮮明に覚えていた。
その抱きしめがあったので、母には守られているなと思って母には
反抗しなかった。父には反抗して何度も家出をした。家出すると母が迎えに来てくれて、お金をくれて、何かあったら追いかけるからといってくれて、母が信じられた。きっと誰も反抗期はあると思うが、何があっても、どうなっても、話ができたり、それでも大丈夫と見ていてくれれば、子どもは年を取れば、あとで振り返ることができる。大きくならないとわからないことはある。
自分も成長してわかってくることもある。
そう実感している。
和歌子さん:母は厳しい人だった。あまりほめられたことがなかった。やって当然、ありがとうといわれたことがあまりなかった。たとえば、やることが10個あったとして、その9個を一生懸命やっても、心が崩れてしまって1個を手を抜いたら、そこですごく怒られた。9個を評価してありがとうと言って
ほしかった。でも母はこわいので、反抗できず、もっとがんばらなきゃという思いがあった。私は母からすごく怒られていたと思っていた。きょうだいで思われ方がちがうと感じていた。
<意見:障がい児の親>
長兄が障がい児だった。どうしてお兄さんなのに私が我慢しなければならないのかとずっと思っていた。兄がいじめに会ったときもあった。
言いたいことがいえなくて毎日ぐずぐず泣いていた。
次兄にきょうだいが欲しいと親が思って私を生んだ。愛されてきたことを思った。
私も、もっと人に甘えられたらと思った。甘えるのが下手で抱え込んでしまう。でも、どうしても人に甘えなくてはならないことがある。とても1人ではできないので、いろんな人に助けてもらうほうがいいと思う。
兄は、両親に一番かわいがられて、ずるいなという思いがあった。
自分の子どもが今、障がいをもってかわいいのを感じて、ああ、兄もかわいかったんだろうなと思った。いろんな気持ちがあるのを感じて、私自身、とてもよかった。
<意見:障がい児の親>
3人の意見を聴いて、自分の子どもからのメッセージに聴こえた。子どもが私に話してくれるときに、ちゃんとその子の話が聴けることが大切だと思う。
和歌子さんにひと言。お母さんの落ち込んでいる様子、深刻だと思った。
きっと、お母さん余裕がないんですよ。あなたがお母さんに少し優しい気持ちで接してあげて欲しい。
和歌子さん:親と離れて生活している。もう少し時間かかると思うが、
今は少しずつ自分の中で納得してきている。これからは、親を支えたいと思うようになるかもしれない。
<意見:障がい児の親>
障がいのため母子通園が必要と言われた。そのため、生まれたばかりの下のきょうだいを祖父母に預けて1年間母子通園した。
下のきょうだいが2歳になったとき、「お兄ちゃんはママだよね、私はおばあちゃんだよね」と言った。その言葉が私の胸に突き刺さった。置いてきたくて置いてきたわけではない。
つらいことだった。でも、訴えてくれたことによって親として気づかされたことが多い。愛情はあるが、親はいっぱいいっぱいなときもある。だから、親には我慢せずに、私はこんなふうにつらいと
言うことを訴えてみてください。
智恵さん:弟が母子通園のときは、私も祖母の家にあずけられていた。
毎日うらやましい気持ちが多かった。私はいつも保育園なのに、弟は何か楽しそうなところへ行く。母が私を迎えに来る頃には、あたりは真っ暗になって一日が終わってしまう、という感じだった。
みんなが一生懸命でみんなが大変な思いをしていた。今は私が親に
なったので、親が大変な思いをしてきたのがわかる。こんなに大変な思いをしながら、親は弟と私を育てたのかと思うと尊敬の念しかわかない。
私のこともやってくれた母はどんなに大変だろうと思った。
そう考えられたときに、もっとこうして欲しかったという気持ちが自然と薄れていった。
子どもはそういう苦労はわからないが、その大変さがわかったとき、はじめて感謝の気持ちになると思う。
<意見:障がい児の親>
涙なしでは聴けない話だった。和歌子さんはプレッシャーがあって、嫌なことがあったとしても、結果的に自分の将来を見つけているので、えらいなと思う。
親として学校で障がいについての啓発授業をしている。
子どもの前でも話をしている。親がオープンにすることについて、きょうだいとしてどう思うか。
智恵さん:私はオープンにして欲しいと思う。でも、周りのみんなが知ったとき、時にはどうしても辛くなるときがある。もしかしたら、からかう人もいるだろう。
でも、10人のうち9人から、からかわれても、つらいことがあるんだねと、心から支えてくれる人が1人でもいたら、心は曲がらないと思う。
則子さん:私はある時期までは上手に言って欲しい。高校くらいなら受け止められるが、小学生、中学生では受け止められるかなと思う。
実際、人とは違うことはわかっていたが、母からは姉の障がいを
教えてくれたことはなかった。
和歌子さん:障がいについて活動している親ではなかった。弟についても漠然と知的障がいだと言われていた。
友達に答えられるだけの情報が欲しかった。親がそういう活動をしていれば、私としては親が頑張っているから私もがんばると思えたかもしれない。
**********************************
<私の感想>
**********************************
子どもは親に言われなくても、よく察している。
3人のパネリストのお話を伺い、本当によくがんばってこられた
と思った。今回の研修での学びとして、障がい児のきょうだいと
親にとって大切なことは、
子どもが、言いたいことが言えること
親が、それを聴くゆとりがあること
親が子どもに、あなただけよ、という時間をもつこと、である。
障がいは誰の責任でもない。
障がい児の家庭は、家庭内だけで支えると負担がかかるので、
周りの大人たちの援助や、時には障がい児を預かるサービス
(レスパイト)を活用して、親の休息の時間や、きょうだい
とのひと時を過ごす時間を確保する必要があるだろう。
同じ思いを共有しあう「きょうだい会」も心の支えになると思った。
パネリストはじめ参加者、関係者の皆さんに感謝したい。
文責 高橋昭彦
読ませていただき、何とも言えない気持ちになりました。
私たちは、外来できょうだいへの対応についてご両親から相談されることがあります。
「親が子どもに、あなただけよ、という時間を持つこと」
これは、少しでもいいからそういうふうにしてあげてね、とお伝えするようつとめてはいます。
しかし、これだけ深いきょうだいの葛藤を知ったのは初めてで、私の今までの返答はこれでよかったのか・・・とあらためて考えさせられました。
このような勉強の機会がまたあれば、ぜひ私も参加させてもらいたいと思います。
以前、ある研修会で、人工呼吸器をつけた子どもの母親が、その子のきょうだい(まだ幼い)から「お母さんなんて大嫌い」といわれたことを涙ながらに語っておられました。つらいことですが、医療的ケアが必要ですと、母親が本当にかかりきりになってしまうこともしばしばです。親に余裕がもてるような仕組みやサポートが必要だと強く思います。今後ともよろしくお願い申し上げます。