タマさんは旅立ちの衣装を残していたということで、三男の嫁さんがたんすの中を探していたとき、私は息子さんたちから昔の話を聴いていた。
タマさんは戦時中に疎開のため、宇都宮の郊外にある実家に身を寄せていた。こんな田舎にもB29は来たらしく、


そのタマさんの様子が急変したのは亡くなる2週間ほど前のことだった。午前1時に往診すると、タマさんは意識がほとんどなく、呼吸状態も不規則で、時々無呼吸になる。もちろん手足も動かない状態だった。頭の中で何かが起こったと思った。近くに住む家族全員と、訪問看護師と私で深夜の話し合いとなった。
最初は入院しかない、家では看られないという話が家族からあった。状態をみれば無理もない。しかし、病院に入院すると今の状態だとまず呼吸管理が必要になる。呼吸管理というのは、気管の中に管をいれて人工呼吸器をつなぐということである。もちろん、点滴などの管も入るだろう、と伝えると、「それって延命治療ですか?延命治療なら受けさせたくない」と話があった。
在宅医療を開始するときは、ご本人に最期はどうしたいのか聞くことにしているが、そのときのタマさんの返事は「入院はできればしたくない」だった。そのような話をしていると、やがてタマさんの息が何度も止まりそうになった。もう動かせないかもしれないと言うと、、家族のハラは決まった。延命治療を希望せず、自宅で看取る方向になった。タマさんはベッドは嫌がるということで、エアマットだけをケアマネジャーに依頼して用意した。
2日後に訪問したところ、何も治療をしていないのに、意識と呼吸の状態がやや改善していた。今朝は水分はスプーン大2さじくらい。呼びかけには眼が開く。体も動く。すごい生命力である。
意識があるので「もう病院にいかなくていいです、心配ないです」と耳元で言うとニッと笑われる。家族もその様子を見て笑われた。尿量が徐々に減っていた。帰り際に、慌てないでいいですと伝えた。
しばらく往診の依頼はなかったので、1週間後に訪問をした。縁側から日がさす

家族も落ちついてきたようで、入院しなくてよかったと言ってくださる。
「また来ますのでその時までお元気で」と伝えると、口がひらき、かすかに、はーいと声が聞こえる。帰りますよというとまた、はーいとかすかに口が動く。笑顔だ。耳は確かに聴こえていた。
あと10日で93歳の誕生日を迎えるはずだったタマさん。「それまでお元気でいてくださいね」と声をかけると、今度は返事はなかった。
それから5日後。静かに、タマさんは息を引き取った

訪問看護と在宅医が定期的に入ることで、その家庭の暮らしぶりや、ご本人と家族の考えなどを知ることができる。家族の介護力や気持ち、本人の希望などもわかるようになる。もし、深夜の往診がはじめての訪問だったとしたら、家族が看れないといわれればそのまま救急車を呼んで病院へ搬送していただろう。
しかし、訪問を開始して数ヶ月がたってからの急変だった。本人は病院へ行くことは望んでいなかった。家族は延命治療は望まなかった。あとは介護の不安だったが、少しの期間なら交代で踏ん張れそうだと思ってくださったことで覚悟ができたと思っている。訪問看護と在宅医の役割のひとつは、その覚悟を少しだけそっとお手伝いすることにある。
旅立ちの衣装はたんすの奥に大事にしまわれていた。
和服に着替えたタマさんは、微笑んでいるようだった
