
いつも通信テレマカシーでお世話になっているSさんから、ブログは書かないと・・・といわれ、よしっ

2008年9月14日・15日に、京都の同志社大学を会場に在宅ケアを支える診療所市民全国ネットワーク 京都大会が開かれました。私は人工呼吸器をつけた子どもの預かりサービスについて実践交流会で発表をしましたが、それ以外はずっと会場で発表や講演を聴いていました。その中で初日に立命館大学の社会学者、立岩真也さんの話を紹介します。
以下、記録をもとにまとめたものです。
立岩さん
◎障がいをもつ人とのかかわり
重い障がいがありながらひとりぐらしをする全身性障がい者とのかかわりを続けてきた。制度がないころから、ボランティアを募りやがて制度を勝ち取ってきた人たちをみてきた。やがて筋萎縮性側索硬化症ALSの人たちとの交流も始まりまった。
ALSの人たちは字が書けなくなってからも、さまざまな手段をつかって文章を書く。こうして何人もの人たちが本を書いておられるが、立岩さんはその本を買いこんで、「どうやって病気のことを知らされたのか」「そのときの医療者の対応はどうだったのか」「呼吸器つけるかつけないかというときどうだったのか」といったことを知り、次第にこの分野に関わるようになる。呼吸器をつけるかそうでないかときくことは、「生きるか死ぬか」ということ。これは人が人に聞く事だろうか? と立岩さんは言う。このような重度の障がいのある人の生活のことをもっと医師や看護師は知って欲しい。
◎重度障がいの人が家に帰る
病院から家に帰るとき、家族がいる家があってそれに介護保険をつかってそして帰るのが普通の退院の仕方でしょう。 しかし、家族もいない、ひとり暮らしがしたい、しかも医療的ケアが必要、という条件をかけあわせたとき、どんな手立てがあるのか。
このような退院調整には、医療ソーシャルワーカーやケアマネジャーが関わることになるが、彼らは「やります」というが、通常のサービスを組み合わせるだけで、あとは調整ができない。しかし、彼らは「私はよくわかりません」とはなかなか言わない。現実的には利用者がソーシャルワーカーやケアマネジャーを変えるということはとても難しいこと。
彼らは、もっとこの分野についてよく知っている立岩さんたちにまかせることをしない。でも退院の日は迫ってくる。
ある人は、ある大学の学生たちがその人のために家を改造して退院後の生活支援も学生から受けているという。
◎ある人の人生の責任
ある重度障がい者にかかわる大学院生。一生懸命その人のためにかけまわっていた。するとあちらこちらで言われた言葉があった。
「あなたその人の人生の責任とれるんですか」
「あなたその人の家族になれるんですか」
立岩さんは怒った「そういう言葉が人を殺すんだ」と。まず家族というものが責任をとるということが間違っている。その責任は、家族に一義的に与えられるものではなくてざっくり言えば、1人が同じずつくらい責任を負う。それでいい。
たまたま見るに見かねて、あるいは使命感で関わった人が責任を取りきれるのか。そういうことが根本的に間違っている。
ある人に学生のボランティアが関わって生活を支えているとする。学生はやがて卒業を迎え、就職活動もしなければならない。こうして仲間はだんだん減っていく、次の人を見つけなければ自分が辞められない、だんだんとつらくなっていく。そのことが本人をもつらくしていく。一握りの人が責任をとるということはそういうことである。そのために、制度というものがある。
現在の社会は家族が責任を取りきらなければならない、がそうではない。
皆が適当に責任をもち、適当に無責任でいいと思う。そういう社会のほうが望ましいと思うし、そのように思う人は決して「呼吸器をつけたら10年20年生きるから、あなた、その間家族代わりになってみられるのか? 責任をとれるのか?」
ということは言わない。
しかし、我々が幾度も耳にしたように、そのようなせりふを素人ではない専門職の方が何度も言ってきたという事実がある。そういう言葉を専門職が投げる、それはやっぱり間違っているんだろうと思う。
あるべき方角にむけて現実を動かしてくことは全く不可能ではない。少なくとも世界に先んじて実践してきたのはこの国でありこの国の当事者である。ここしばらくは正念場である。
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まとめ終わり
最後の1部分は衝撃的でした。
家族にこれ以上迷惑をかけられないから呼吸器をつけないという選択をされて逝かれた方のことを思い出しました。10年以上前のことです。もう少し自分にもできることがあったと思っています。
また、皆さまにお伝えしたいということはアップします

その責任は、家族に一義的に与えられるものではなくてざっくり言えば、1人が同じずつくらい責任を負う。それでいい。・・・一人では解決できない、だから助け(制度)を作らないと!!
皆が適当に責任をもち、適当に無責任でいいと思う・・・自分の生活もあるのだから、どこかで線引きをしないと続けられない。そのために多くの仲間が必要
私も京都に行きたかった。残念
障がいをもつ人の生活を支えるのは特定の人ではなく、現在たまたま障がいを持っていない人たちが応分に負担をするということでよいと思います。そうしないと長続きしません。
なかなか障がいをもつ人の生活はみえてきませんが、山口さんのように、自分に無関係ではないと思う人が増えることが力になると思っています。
初のコメントありがとうございます。